2006年9月21日

負の偶数はあるのか

-2、-4は偶数なのでしょうか? 根拠を提示して回答をお願いいたします。 (人力検索はてな)

答えは以下の2つに分かれています。

■ 「偶数とは2で割り切れる整数」であるので偶数である
■ 「偶数とは2で割り切れる自然数」であるので偶数ではない

私は数学者ではないし、きちんと調べる気がないので認識が正しくないかもしれませんが見解を。この問題の根本は「偶数/奇数」という概念が生み出された時に 0 や負数の概念があったかどうかを把握することに帰着されると思います。もし概念があったならば偶数でしょうし、なければ想定外であり偶数ではないとなると思います。

仮に後者であった場合、その後負数の概念が導入された際にその領域にも拡張されたのではないかと思います(おそらくそれが自然)。いずれにせよ偶数とみなしてもよいのではないかと思います。ただ可能性としてもともとは偶数ではなかった(というよりむしろ概念上存在しなかった)ということが考えられます。

0 が偶数かどうかというのも一議論ありそうな気もします。

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2006年7月25日

紙 VS 電子媒体

下のエントリーを書いていて思ったのことを。

効率がよいので電子辞書が紙の辞書にとって替わられたのはその通りなのですが、では紙の媒体はなくなってしまうかといえばそうではないと思います。調べるものがはっきりとしているときには圧倒的に電子辞書の方が早いし便利だと思います。しかしながら暇なときにパラパラと見てみるとか調べた際に目に止まった前後のものをついでに調べてしまうといったいわゆる「無駄なこと」をするには紙の媒体が適しています。

今の家庭にどれくらい何十冊とある百科事典がおいてあるのでしょうか。百科事典に載っているようなことであれば現在はほとんどインターネットで調べられるし電子辞書でも調べられるかもしれない。それでも置いてあることによって暇なときについ広げて見てしまいます。この効果はさすがに紙の媒体の強みだと思います。この「無駄なこと」が特に子供の頃には知的好奇心や雑学を広げる上では重要なことなのではないかなぁと思います。

無理に1対1に対応をさせるわけではないのですが、ここで書いた紙の媒体と学校(特に中高)での勉強は似たような意味合いがあるのではないでしょうか。中高の勉強というものは百科事典を読みあさるのと同じで一見意味がないと感じるかもしれないが、成長に大きく役に立っていいる類のものだと思います。

将来の目的が確実に決まっていて、それに突き進むのであれば電子辞書的に無駄なもの(不必要だと分かっている教科)を切り捨てるというのもいいでしょう。そうでないのならば「将来使わないよなぁ〜無駄だぁ」というものも直接的であれ間接的であれ良い方に影響すると思います。もちろん本当に必要がないまま終わるものもあるでしょう…というかその方が多いかもしれませんけどね。

完全なこじつけな気がしますがふと思ったので。

投稿者 kato : 00:37 | コメント (0) | トラックバック

2006年3月27日

小5から英語を必修化 中教審部会が提言

小5から英語を必修化 中教審部会が提言 (asahi.com)

週1時間程度の授業を行うことを検討しているそうです。しかも

「教科」にすると、通知表で3段階の数値評定を行う必要があるなど、学校現場に混乱を招くおそれがある。そこで、道徳などと同じ「領域」か、「総合的な学習の時間」の中に位置づけるべきだとした。

ということで、学習的な強制力はあまり働かないらしい。そもそも週に1時間という中途半端な時間を割くくらいならば、その時間を国語に充てた方がよいような気がする。バイリンガルになるにはまず自国の言葉をきちんと磨かなくちゃでしょ。

どうしてもやるというならば個人的には授業として1時間割くよりもむしろ1時間目の前とか給食の時間とかに毎日10分程度の英語の映像(セサミストリートのようなもの?)を流せばよいのでは?という気がする。映像ならばそれなりに見てくれるような気がするし、やり方によっては結構効果的に出来るような気がするのですが。いかがでしょう?

投稿者 kato : 23:21 | コメント (0) | トラックバック

2006年3月23日

下ネタは学習の味方?

中・高での学習において数学や理科の公式、社会の地名や歴史など覚えなければいけないことがかなり多い。個人的にはあまり好きではないのですが、それらを覚える手段として「ごろ」というものがあります。ごろにも地域特性があったりしてそれをまとめると非常に興味深いです。先生や塾講師、参考書などからのものだけではなく生徒から伝わったものやあみだしたものなど非常にさまざまなものがあります。その一例として周期表の覚え方というサイトがあります。

このサイトは周期表だけではなく本当にさまざまな語呂を投稿してもらって、それを紹介しています。これを見ていると実に下ネタが多いことが分かります。さすがに授業では紹介してもらえないだろうなぁというものが数多く見られます。語呂で覚えるということは悪い言い方をすれば本質をとらえることなく頭に知識だけを詰め込むということですので、これはある意味苦痛な作業かと思います。なので、どこかで楽しみを見いだす必要があるわけですがその共通な楽しみは下ネタということか。この手のパワーが強いのはかつてのビデオの普及過程を振り返れば自明か。

面白くかつ印象深い語呂を手に入れれば非常に効率よく覚えられる訳ですが、効率をある程度無視するならば、自分で語呂を生み出してみるのもよいかなと思います。生み出す作業は非常にものを考えなくてはいけないことは「群馬君いわし食い過ぎ船頭気分か?(群馬県、岩宿遺跡、先土器文化)」の名語呂を最初に生み出しながらだんだんぐだぐだになっていった某TV番組を見ていた人ならば実感をしていると思います。産みの苦しみを味わうとその感覚も一緒に記憶をするので、非効率ではありますが覚えられるかなと思います。

これ書いていてまだどうでしょうの DVD の予約をしていないことに気づいた…

投稿者 kato : 19:41 | コメント (0) | トラックバック

2005年9月25日

久しぶりに POV-Ray を使ってみた

POV-Ray

たぶん自己満足のような気がしますが空間図形を作るために久しぶりに POV-Ray を使ってみた。必要に迫られた時にしか使わないから、マニュアル等を見ないとまったく使い方が分からない…。

まぁ、この程度出来ればいいかな。作り始めと最後で作品のレベルが違う気がしますが、それはご愛敬(ここでは紹介しませんが)。

投稿者 kato : 23:52 | コメント (0) | トラックバック

2005年2月 6日

晒し者?

出欠はケータイで、「代返」許さず 青森大が新年度から (asahi.com)

代返対策と教官の出席処理の効率化のため携帯電話による出欠確認を行うらしい。講義時に数字を発表し、その数字を主席確認サイトに登録することによって出席が確定するらしい。では携帯電話を所持していない人は?ということになりますが

現在、同大に在籍中で携帯電話を持っていない学生は1%程度。この学生たちは講義中に出欠確認をする際、個別に名前を告げることになる。

だそうです。つまり、毎回講義時に携帯を持っていない人は名前を晒されるというわけです。いや、まぁそれが問題なのかどうかは別としてふとそう思ったわけです。

ただいくつか問題もありそうですね。例えばたまたま当日携帯を忘れたとかバッテリーが切れたとかいう人はどう対処するんだろう。また、最初に携帯を使わせてしまうと肝心の講義時にも携帯を出しっ放しで講義に集中しない人が出てきそうだ。さらに、その気になれば友人に携帯を預ければ代返可能ですね。それ以上に友人に携帯を使われるリスクの方が大きそうですが。

というか、私携帯持っていないんだよなぁ。晒される身か…。PHS でも大丈夫な作りならいいけど。いや、そもそも青森大の人間じゃないからそんなこと考える必要などないのですけどね。

--

(追記)

スラッシュドットでも話題になっていた(代返防止システム)。反応はやはり意味がないとか簡単にずるできるじゃん、など私の意見とほとんど変わらなかったので、やはり誰もが思うことは同じかなと感じた。

そもそも出席をとる必要があるのかという議論もありました。個人的には別に出ようが出まいがレポートなりテストをきちんとこなせばそれでいいのでは?と思いますけどね。無理に講義に出席させてうるさいよりははるかに質の高い講義が出来ると思う。講義に出ないということは「お前の話など聞かなくても分かっているんだぜ!」という意思表示ということだと思えばそれでよいのだと思う。それで肝心の試験の結果が悪くて泣きついてもそれは自分のせいなわけだし。とはいえ確かに一番最初のガイダンスとも言える講義にも全くでないでテストだけクリアしていかれてしまっても少し腹が立ちますけどね。

…と書きましたが、出席率と成績はそれなりに相関があると思う。もちろん出なくても試験が出来る人もその逆もありますが、巨視的に見ればやはり真面目にきちんと出ている方がよい成績をとる傾向にあると思う。結局のところ意識の問題だと思います。

投稿者 kato : 17:26 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月29日

ゆとり教育は失敗?

「ゆとり教育は失敗」 授業復活求め理数系学会が提言 (asahi.com)

理数系の学会が連名で総合的学習などに代えられた理数科目の授業時間復活を求める提言を提出したらしい。具体的な数値は中学3年生の平均授業時間に占める理科、数学の割合はアメリカで30%、イギリス28%、フランス27%に対し、日本は23%だそうだ。そして、日本ではさらに減らされそうとのこと(以上、上記サイトの要約)。

総合学習や情報教育などやることが増えたのに対して週休2日になったりと授業時間が削減されれば自然と内容は減らざるを得ない。週休2日で授業時間が減らないようかつての6時間から7時間になったり、学習以外の教科が削られているようだが、それはそれで問題かなとも思う。

総合学習を(行政側の思惑通り)きちんとすれば問題は起きなかったのかもしれない。総合学習の場でとことん考えるようになれば多少授業の内容が減っても、うまく知的好奇心を煽るような指導が出来れば、行政側の思惑通りにうまく言ったのかも知れない。そう思うと問題は、うまく対応できなかった教員側かもしれないし、急ぎすぎた(あるいは、過剰な期待をしていた)行政側かもしれない。

現実問題として「考えない子」、あるいは「すぐに思考停止する子」が増えていると思う。それはゆとり教育と呼ばれるもののせいなのか、親や地域の教育の問題なのかは分からない。おそらく両方なのだろう。今、「〜な子」と書いたが同じことが大人にも結構当てはまる。特に理系な事柄に思考停止をすぐしてしまう大人は結構多い。

教育問題は単純に直接教える、または教えられる人達だけの問題では決してないことを把握することが重要なのだと思う。

投稿者 kato : 03:30 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月13日

返歌

トラックバック先にコメントをすれば良いのですが、私は奥ゆかしいので(大嘘)自分の部分に独り言を。「OECD学力調査」 に対してトラックバックをしていただいた。そこでの主張を要約すると「分散が大きいのに平均で議論するのはいかがなものか」ということ。きちんと資料に目を通して新聞では語られなかったテストでの分散などについて詳細に議論をされていた。仰有る通りで他国との比較はあまり意味はなさそう。むしろ日本なら日本だけで過去と比べてどう変化したかが大切かもしれない。いずれにせよ、私の主張は変わらないわけですが。

新聞各社が結果を吟味しないで文章を書いているのは、たぶん文科省のコメントをもとに文章を構成しているからでしょう。

数学に興味がなくなっていることに対する危惧をこれは日本人全体の問題でされていた。やっぱり現場が興味を持たせるように頑張る必要があるのかなぁ。でも、自分が小、中学校で先生の影響を受けて数学に興味を持ったというのはないなぁ。唯一あるとすれば小学校2年生の時に、担任の先生が不在時に替わりの先生が2進法を教えてくれたのは印象深かったことかな。1時間ひたすら2進法と10進法の対応表を書いた気がする。

学校よりもむしろ父親と車に乗っていたときに車のナンバープレートの4桁の数字で四則演算を用いてどちらが早く 10 を作れるかということを競っていたことの方が数学を楽しむ入り口だったような気がする。そう考えると、興味への入り口は学校だけではなく周りの大人(や年上の人)の影響が大きい気がする。それを学校にのみ追いやっている現状がいけないのかも。結局のところ教育改革というのは本当にいろんなところからやる必要があるのだと思う。

リンク先に合わせて数学で話を進めましたが、いわゆる「知的好奇心」は理系も文系もないので何に対しても同じようなことが言えると思う。ま、そもそも理系、文系などという線引き自体ナンセンスなのですけどね。

投稿者 kato : 16:44 | コメント (0) | トラックバック

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